京路|後白河法皇“法住寺殿”の鎮守社「新熊野神社」

  • URLをコピーしました!

後白河法皇によって創建された新熊野(いまくまの)神社は、京都市東山区に鎮座する神社です。

今回は、新熊野(いまくまの)神社をご紹介します。

大きなクスノキがある「お腹の神様」として知られる神社ですよ。

目次

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)

新熊野神社は、熊野信仰の盛んな平安時代末期に後白河法皇によって院御所「法住寺殿」の鎮守社として熊野三山の熊野権現を勧請して創建された新熊野社が始まりとされています。

熊野信仰とは、熊野三山(本宮・新宮・那智)を中心にした信仰のことで、法皇は生涯34回も熊野に参詣されたと言います。

ただ当時、熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありませんでした。

そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが新熊野神社です。

応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。

それからは、長く京の熊野信仰の中心地として繁栄を極めました。

しかし、応仁の乱以降、何度も戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。

その後、江戸時代初期に後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)により再建され、現在の本殿は寛文13(1663)年、聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。

「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのはなぜ?

「新熊野神社」、字の通り「しんくまのじんじゃ」と読むのかと思いきや、読み方は「いまくまのじんじゃ」、ぱっとみ絶対読めませんよね。

なぜ「新熊野=いまくまの」と読むのでしょうか?

「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、

「紀州の“古い熊野”に対して京の“新しい熊野”」、「紀州の“昔の熊野”に対する京の“今の熊野”」という、当時の都人の認識がその由来となっているのだそうです。

“新熊野神社”境内の様子

新熊野神社は、歴史ある寺社が建ち並ぶ京都東山の麓を走る東大路通沿いに鎮座しています。

境内には、「影向(ようごう)の大樟」と呼ばれる大きな楠があります。

この木は、神社創建の際に紀州熊野から運ばれ、後白河法皇が手植えされたと伝わっていて、樹齢約900年なんだとか!健康長寿のご利益があると言われ、後白河上皇が腹を患うことが多かったことから、特に「お腹の神様」として信仰されてきました

大樟の枝で作られた、さすると病が癒えるといわれ「さすり木」があり、今でにたくさんの人にさすられてきた木肌は磨かれたようにスベスベなっています。

さすり木の右側から大樟のそばまで行くことができる入り口がありますよ!

新熊野神社 本殿です。

屋根には八咫烏がいるので、お見逃しなく!

新熊野神社で、能楽の祖の観阿弥・世阿弥父子が「新熊野神事能楽」を披露し、至芸に感動した室町幕府三代将軍 足利義満が二人を庇護するようになったと言われています。

この今熊野での猿楽演能は日本芸能史における変革点と言われ、現在日本の伝統芸能「能」「狂言」「歌舞伎」は、ここから始まったと伝わっています。

【新熊野神社】アクセス基本情報

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次